長野金から28年…里谷多英さんが「ノンストップ!」でモーグル生解説 涙の4位・冨高の人柄も紹介

12 February 2026

 長野五輪女子モーグル金メダリストの里谷多英氏が12日、フジテレビ系「ノンストップ!」で生解説を行った。  里谷氏は前日行われた女子モーグルの冨高日向子の滑りを解説。冨高は3位選手と同点ながら、ターンの得点差で涙の4位となった。  里谷氏以来のメダルにあと一歩だった冨高の滑りを見た里谷氏は「いったなと思いました。メダル確定したなって。風が冨高選手に吹いていると」「私から見ても銅メダルでいいと思いました」と絶賛した。  里谷氏と冨高は「私が現役時代、冨高選手が小学生か中学生の頃、同じジャンプ台で練習したことがあった」という関係。「そのまま大人になっている。皆から好かれていて、人望も厚く、みんな大好きな選手」だと人柄も紹介した。  里谷氏はオーバーめのダブルジャケットに白のインナー姿。黒髪のセミロングヘアで当時と変わらない姿。ネットでも「里谷多英さんが解説!」「里谷さん久々に見た!」「里谷さんがも^ぐるでメダルをとったのが24年前らしい。驚きを隠せないぜ。そんなにたつ?」など反響を呼んでいた。

漫才師・東京太さんが死去 83歳 肺がんで 昨年死去のゆめ子さんとの夫婦漫才愛され…

12 February 2026

 漫才師の東京太(本名・菅谷利雄=すがや・としお)さんが2日、肺がんのため亡くなったことが12日、分かった。83歳。落語芸術協会が発表した。  東京都台東区出身。東さんは1961年に松鶴家千代若・千代菊に入門。66年に当時の東京都知事だった東龍太郎氏から東京太の芸名をもらった。  93年に妻のゆめ子とコンビを組み「東京太・ゆめ子」を結成。2010年に文化庁芸術祭大賞を受賞する。夫婦ならではの息の合った掛け合いは多くの観客に愛され、寄席では欠かせぬ存在となった。  25年6月にゆめ子さんが死去。その後は漫談で高座に上がり続けた。落語芸術協会でも後進の育成に尽力。同協会は「昨年のゆめ子先生に続き、京太先生まで旅立たれてしまったことは深い喪失感に包まれ、悔やんでも悔やみきれません」のコメントを出している。  最後の出演は昨年11月15日、東洋館「漫才大行進」だった。

国分太一、日テレ社長と面会「直接お詫びをさせていただいた」人権救済申し立ては行わず

12 February 2026

 元TOKIOの国分太一が12日、日本テレビの福田博之社長と面会したと代理人弁護士を通して発表した。  国分は代理人弁護士を通じて文書を発表。そこには「このたび、日本テレビの福田博之社長と面会する機会をいただき、私の行いによりご迷惑をおかけしたことに対して直接にお詫びをさせていただきました。また関係者の方には私からのお詫びの手紙をお渡しいただくことも叶いました」と記されている。  「このように日本テレビから一定のご配慮をいただけたことを受けまして、改めての人権救済の申し立ては行わない旨を福田社長にお伝えさせていただきました」とも記された。

自民恩恵の比例復活…中道の長妻昭氏「政策も妥協、党名も捨て、選挙のためとみられた」本当は綿密打ち合わせと主張

12 February 2026

 中道の長妻昭衆院議員が11日、TOKYO MX「堀潤Live Junction」に出演。衆院選での中道の敗因を語った。  長妻氏は小選挙区では敗れたものの、自民党から比例議席を譲られる形で比例当選。「大変な選挙でありまして、本当にその中にあっても応援いただいた皆様に感謝とともに、結果を出せなかったことに深くおわびを申し上げます」と謝罪した。  09年の民主党政権誕生時には、今回と逆で民主党が308議席の圧勝となったが「あの時はビラを差し上げるというか、持っていると『くれ!』と持っていってくれて。ワーッと皆さんが。隔世の感がある」としみじみ。「その時も05年に小泉旋風でボロ負けして、臥薪嘗胆、質問を磨いて国会論戦で成果を上げて4年後、政権交代があった。今回も同じとは言いませんが、4年解散はないと思う。その間、論戦を磨いて国民の皆さんに信頼を受けるような活動をして、4年後でしょう、恐らく。その時の解散総選挙で結果を出したい」と話した。  今回はベテラン議員が数多く落選。世代交代も考える時期ではあるが「これが一番重要で、落選された方、現職が100人以上いる。優秀な方いっぱいいる。そういう方の心が折れないように、資金的な援助を含めていろいろなサポートをしていく」と発言。「何より、我が党が国民の皆さんの中から『中道いい仕事してるね』って思ってもらえれば、彼らも元気が出る。一に国会論戦、二に国会論戦、そして三に国会論戦だと思っているので、結束していい仕事をしていきたい」とした。  また、今回の敗因については「やっぱり05年年の小泉劇場を経験して、その時も小選挙区で落選して比例で復活。あの時と似ている風」「高市総理の圧倒的人気と、それをしのぐ地盤を作りきれてなかったのが最大のポイント」とコメント。さらに「政策も妥協して党名も捨てて、選挙のためにとみられた」とも自覚。「相当綿密に打ち合わせをして発表しているんですけど」と振り返っていた。